Media Five Co. 夢に近づくためにできることから始めてる。
Eriya hour
「50歳からの起業」

メディア5 CEO 上野英理也

私が理事を務めている幼稚園で、先週「音楽週間」が開催されました。
この25年間、毎年6月になるとプロの音楽家が一週間幼稚園に来て
園児と一緒に音楽を創り上げていきます。

今年は私のアネ(ピアニスト)が東京から声楽家を連れて来、九響メンバーから
バイオリン・ビオラ・コントラバスの弦楽五重奏とチューバの延べ8名が
3日間入れ替わり立ち代り参加してくれました。今年は欠かさず見学に
行きました。園児は「プロ」なんて臆することなく音楽家の演奏や楽器の
音に素直に反応するし、また音楽家たちがプライド?を忘れて真剣に
スキップに挑戦する姿(コンマスにとっては演奏より難しい・・・)は
お母さんたちの楽しい笑いを誘っていました。

(九州交響楽団)
http://orchestra.musicinfo.co.jp/~kyukyo/kyukyoFiles/index1.html

(前九響現名古屋フィルコンサートマスター)
http://www.whi.m-net.ne.jp/~carnival/p1.goto.html

この幼稚園は今年で創立50周年を迎えます。現在私のハハが理事長園長ですが
設立したのは祖母(ミサヲ)です。ミサヲは旧家の生まれで何不自由なく
育ちお金持ちで働く必要もないので、当時の女性としては珍しく女学校を卒業し
十代からミッション系の学校で教鞭をとっていました。25歳にもなって
結婚していなかったので、ミサヲが通っていた教会の牧師タナカ先生
(小説家 田中小実昌のチチ)の紹介で、弟子ヒロノリと見合いし結婚しました。
(後年祖父ヒロノリは「強制結婚させられたわい。」と言っていました・・・)

(田中小実昌)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%B0%8F%E5%AE%9F%E6%98%8C

牧師ヒロノリは、一心不乱に勉強に没頭した挙句所属していた教会組織をタナカ
先生と共に離脱し新教会を立ち上げるなど、端からみれば気がふれたような振る舞い。
当然夫や父としての職務は放棄。総勢6名の子供を抱えたミサヲは、小姑から
いじめられながらも実家の世話になりつつ家庭を守っていたのでした。

(アサ会)
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20050617

激動の伝道時代と極貧の大東亜戦争を経て、ヒロノリの教会も認知されてきました。
母校西南学院大学に教授として迎えられ長女アキコもヒロノリと同じ大学に
学生として通うようになると、ミサヲは外に働きに出るようになりました。
場所は「板付(いたづけ)」(現福岡空港付近)の米軍基地にある叔父さんの
クリーニング屋です。当時は朝鮮戦争最中で最前線の板付米軍基地は米兵で
溢れかえっていました。そこにマリリンモンローも慰問に訪れる程でした。

(西南学院)
http://www.seinan-gu.ac.jp/
(マリリンモンロー)
http://www.lib.pref.fukuoka.jp/tosho/1954nittei01.htm

日曜日は教会があるので(といっても西南教職員住宅のお座敷が集会所)
月曜から土曜まで、ミサヲは朝早く出かけで夜遅く帰ってくる生活を始めました。
その間、長女アキコはミサヲの代わりに5人の弟妹と父ヒロノリの面倒を
見ておりました。(「おっかさんの代わりに、おさんどんさせられた。」と
ハハは愚痴っておりました。)

しかし、働いている割には給料を家計に入れる風もなく、「おまえ、
なにやっとんだ!」と夫ヒロノリにどやされても、「いえ、べつに。」と
はっきり答えません。この時既にミサヲは『幼稚園をつくりたい。』
という夢を胸に秘めていたのでした。

先に『旧家の出で何不自由なく育った』と書きましたが、ミサヲの実家は
「農地改革」の名のもとに所有する田畑をほぼすべて摂取され、既に没落
していたのです。おまけに戦時中は、自分が嫁いできた時に持ってきた
着物と引き換えに「買出し」に出かけ食いつないでいたので、箪笥の中は
空っぽ。夫ヒロノリは給与を得るようになったものの、教会員や学生に
食わせるばかりでこれまた十分な額をミサヲに渡していませんでした。

(農地改革)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E5%9C%B0%E6%94%B9%E9%9D%A9

ミサヲが目を付けていた場所は、県道沿いで当時としては大き目の交差点の
近く、約400坪の元実家の今、元小作の田んぼでした。ミサヲが幼稚園を
作るので買いたい旨を元小作に告げると「ミサヲさんが言うとなら、
安くお分けしますたい。」と言ったとか。
ミサヲは「安く=元小作が田んぼを手に入れた額(ほぼタダ)+α」
と勝手に思い込み、『園舎の費用さえ貯めればなんとか』と
連日頑張っておりました。

働き始めて十余年、
ようやく費用にメドがついたミサヲが再び元小作にお願いすると
元小作は「時価でお譲りしますばい。」とシャーシャーと言ったとか。
希望の頂から絶望の淵に突き落とされたミサヲは持病の高血圧を悪化させ
とうとう九大病院に入院してしまいました。

我が家は癖として、「外に優しく、内に否定的」、その源泉ヒロノリは
ミサヲの夢を知ってからも「そげんことできるかい。」と非協力な態度を
取り続けていました。しかしながら、妻が入院し事態の重大さに気づいた時
病床の妻に「ワシが何とかしちゃるけん、早よう良くなんなっせ。」と
結婚して初めて優しい言葉を掛けたのでした。(と自分で言っておりました。)

決断してからの行動力は流石男ヒロノリ。豊富な人脈を駆使し銀行を動かし
用地買収の資金を集めたのです。県庁申請・用地整備・園舎着工・竣工と
順調に進み、1957年(昭和32年)ミサヲが夢に向かって進みだして
12年、遂にミサヲの幼稚園ができました。ミサヲ53歳の時でした。

(あかし幼稚園)
http://www.akashi.ed.jp/

空間が出来ると人が集まり、人が集まると輪が広がります。
50年間で輩出した卒園生2千名余。園舎では毎週日曜日
午前中は教会の集会、午後は英文学者ヒロノリが始めた英語塾。
(虎方式は、この英語塾のやり方が基本になっています。)
幼稚園を通じて係わった人は数え切れません。
ハハの代になってからは、私の三人の子供がお世話になり始まった
オヤジ同士の交流がビジネスにまで発展しています。
たかが幼稚園ですが、「人脈」ということばが小さく感じるほどの
空間の力を感じます。

ミサヲの後はヒロノリ・三女・四女と園長を継ぎ、現在は
母アキコが50歳で幼稚園を引き継ぎました。今年77歳の喜寿間近ですが
まだまた息子から見ても恐ろしいくらい現役バリバリです。

最盛期は100名以上の在園児を抱えていましたが、最近は少子化と
「スクールバスあり」「いつも給食」「いつまでもお預かり」の
「コンビニエンス幼稚園」に押され気味です。

人数は少なくとも、
「内に否定的」な私から見ても質の高い保育をしていると思います。
皆さん結婚して子供が出来たら是非「ミサヲの幼稚園」来て下さいね。

Last Update : 2006/06/27
 
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